2018-03-13 第196回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号
そして、九月に田中首相が訪中されて日中関係が正常化したことは御承知のとおりです。 これは大げさ過ぎるかもしれませんが、そういう類いの衝撃、つまり、南北首脳が会談して、米朝首脳が会談した後、次に残ってくるのは、次に浮上してくるのが何かと言われれば、私は、日朝関係正常化とか日朝首脳会談というようなテーマが、こちらが望むか望まないかに関わりなく、浮上してくるだろうと推測しているわけであります。
そして、九月に田中首相が訪中されて日中関係が正常化したことは御承知のとおりです。 これは大げさ過ぎるかもしれませんが、そういう類いの衝撃、つまり、南北首脳が会談して、米朝首脳が会談した後、次に残ってくるのは、次に浮上してくるのが何かと言われれば、私は、日朝関係正常化とか日朝首脳会談というようなテーマが、こちらが望むか望まないかに関わりなく、浮上してくるだろうと推測しているわけであります。
福田ドクトリンの二番目、ASEANと心と心の触れ合う関係を構築するというところは、必ずしも目立つ言葉でないのかもしれませんし、普通、二番目辺りには経済の協力が来ると思うんですけれども、この一、二、三、日本は軍事大国にならない、ASEANと心と心の触れ合う関係を構築する、日本とASEANは対等なパートナーであるという文言が出てきたところを私なりに考えますと、その前に田中首相がタイやインドネシアを訪問したときに
先ほど委員から御指摘があったとおり、日中国交正常化四十周年でありますが、田中首相、大平外相がまさにその任に当たられる前に、御党と中国との間でその下地づくりをされたということも、これはもう有名なお話であります。
当時は社会保障はそれほど充実していなかったので、政策判断としては間違いじゃなかったと思いますが、ただ、いろいろ漏れ伝え聞いたり文献で調査してみると、やっぱり田中首相は選挙の天才であられましたので、もう直感的に御理解されているわけですね。社会保障は票になるということがお分かりになっていたわけであります。
それはでも、しかしなかなか順調にはいかず、田中首相がいたころまでは列島改造計画もありましたので、四十五年にこれは全国新幹線鉄道整備法が制定され、東北新幹線、上越新幹線が四十六年に着工、四十七年には全国の基本計画が決定して、そのときの基本計画はなかなか不採算路線もたくさんあったと思うんですが、整備五線に関しては、これは完全に採算的にも問題がないとされていた路線だったと思います。
この事業というのは、一九七〇年代初頭のアメリカ政府の大豆輸出禁止が発端となって、当時の田中首相が、大豆の輸入国の多角化を目的に、大豆の新産地をブラジルにつくろうということで開始された。その結果、一九八〇年には総輸入量の一%未満であったブラジルからの大豆輸入が九九年には一二%まで増加をしたということでありますが、これは今どのぐらいまで増加をしているのか。
ちょっと、真夜中の夜食の件とは違うんですが、日本経済新聞の一九七二年九月二十七日の朝刊によりますと、田中首相はこの日、朝食は日本から持参した梅干しとノリを添え、みそ汁は新潟県柏崎、確かに出てきます、新潟県柏崎のみそを使用、これは、随員もこれと同じものを食べたけれども、何しろ総理は辛いものが好きなものですから、それに合わせた調理だけあって随員の面々は、きょうのみそ汁はしょっぱかったなあと嘆くことしきりというのは
総理は、やはりあす中国に行かれるに際して、実は田中首相の日中国交回復から小渕内閣の時代まで、少しずつ少しずつ積み重ねてきた日中の政治的な信頼関係というものがあったんだと思います。その後、首脳同士が会えなくなった小泉首相の時代、それをもう一度私どもは取り返し、さらに二倍、三倍、前に進めていかなければ北東アジアの危機は乗り切れないんだと思います。
私は、かつて、昭和四十八年から五十一年まで、東南アジア、タイの大使館にいたこともありますが、田中角栄首相が来まして、反日運動が起きて、田中首相が来たら三千人のデモ隊がそのホテルを襲って、田中さんが身の安全が危ないというような情報が事前にありまして、大使に報告しましたところ、外務省と相談しまして、大使はタイの外務大臣に会って、タイの外務大臣に対し、閣議を開いて日本の首相の安全を保証するという一札を出さない
今までの専守防衛の定義というのは、例えば今言われたような船田さんが、船田防衛庁長官が鳩山さんの代理で、鳩山総理大臣の代読という形で言われたり、あるいはまた昭和三十四年に伊能防衛庁長官の発言があったり、あるいはまた田中首相がこれ、専守防衛とは何かということを述べられているところもあるんですね。
日本は、福祉後発国として、田中首相のときの福祉元年もスタートしたばかりですし、どういう福祉社会を建設すればいいのか、先進国の轍を踏まないためにはどうすればいいのかというので、日本型を考えてみようということが言われました。 日本型を考えてみたときに、あのときは、子供との同居を日本の高齢者は非常に志向している。
昨今のアメリカ、そして北朝鮮、日本の北東アジアのトライアングルを見ておりますと、私は、三十年前の米中接近、そしてこの頭ごなし外交に対して田中首相が驚いて急遽北京入りしたという、いわばキッシンジャーが「ホワイトハウス・イヤーズ」に書いておりました日本外交の悪夢をまた想起したわけでございます。クリントン政権の最末期に当たって、とにかく外交成果を上げなければいけない。
もう御案内と思いますけれども、昭和四十七年、田中角栄内閣のときに、田中首相が突然のようにして小選挙区の導入ということを言い出されました。当時、自民党はもう三百近い議席を持っていたんですけれども三分の二には達していない、やっぱり小選挙区を導入して憲法改正を実現しようというのが当時の保守政界の多年の悲願と。田中さんは人気絶頂、おれがやろうということでそれを言い出された。
ロッキード事件で田中首相が逮捕され二十数年がたった今日も、政治家が関与する腐敗事件は残念ながら後を絶ちません。国会でもいろいろ論議されておるところであります。最近もいろいろそうした問題等が続出をしておると言っても過言ではありません。これらの背景には、支持者に頼まれ役所に口をきくことは政治家本来の仕事であるという政治的風土、考え方が横たわっておるのではないかと思います。
前橋本総理もそうでありますし、私も田中首相以来二十五年ぶりにモスクワ・クレムリンに参りまして、エリツィン大統領とこの問題について話し合いました。まさに首脳同士での話に始まったことでございますので、私としても何としても今年中にということで努力を傾注いたしておるところでありますが、新しい大統領も近々誕生することだろうと思います。
○国務大臣(小渕恵三君) 戦後、鳩山首相、田中首相に次いで二十五年ぶりに私としてロシアを訪問いたしましてエリツィン大統領との会談をいたしました。言うまでもありませんが、多年の懸案であります領土問題を解決して二〇〇〇年までに平和条約を締結いたしたい、こういうことで参りました。 今年の四月に橋本総理大臣から提案をいたしておりました件につきまして回答を得たい、こう念じて参ったわけでございます。
○八代委員 日中国交正常化、あれから二十年たつわけですが、田中首相が北京空港におり立ちまして、周恩来主席と抱き合って、そしてお互いにかたく新たな日中関係がスタートしたという思いを持ちますと、私もちょうど国会が二十年になるものですから、何か感慨深いものもあるのです。 しかし、どうも中国は近そうで近くなく、遠そうでやはり遠いのかなという気がするし、何か難しい中国と日本の関係という思いがあるのです。
二十六年前、周恩来総理と田中首相との日中共同声明の原則にも、これは明確に中国の内政問題というふうに書いてありますので、周辺事態に台湾は入らない、この点を明確にする必要があると考えますが、いかがですか。
そのころは当時の田中首相がいわゆるそういうことを言われた。それからもう小渕外務大臣という次の世代になっているわけだと私は思っておる次第でございますから、この日中問題につきましても、新しい知恵を出して新しい世代の知恵、そしてまた、中国の方も新しい世代に今変わりつつあると思います。
田中首相は島さんを呼びつけて、「「前田の首を切れ」」と二回にわたって言っていて、小野会長にかわるまでの七ページにわたって詳しい経過が出ている。いつも会長人事はそうです、そういうたぐいです。NHKの経営委員長、これは中曽根首相、竹下大蔵大臣が磯田一郎経営委員長を実現するために圧力をかけた経過がやっぱり三ページにわたって書かれている。